+ 見世物 +



 男は今にも震えだしそうになっている左手をやや上に上げた。
 親指を立てたその手はすっかり汗ばんでいる。

 首元に突きつけられた剣の切っ先からその柄を握る相手の顔へと視線を移す。
 彼もまた汗だくだが、自分を見下ろすその瞳には獲物を狙う獣のような殺意が映っていた。
 飾られた兜がやけに虚しい。

 死にたくない…。
 無意識のうちに右手で強く砂を握る。
 自分の激しい息遣いが遠く感じた。

 全ては貧しさから脱却するためだった。
 主人の所有物に成り下がったのも、練成所でそれこそ血のにじむような訓練を重ねたのも、全ては貧しさから逃れる、そのわずかな可能性にかけたからだった。

 それなのに、こんな一瞬で、たった一瞬で、セクトルとしての人気も涙ぐましい努力も全て消え失せてしまうのか…?
 太陽が眩しい。それを囲うようにしてひさしがあり、その下には何万人もの観衆が身を乗り出してこちらを凝視している。
 まだ望みはある。
 生きてさえいればあるのだ。
 祈るようにして左手の親指に力を込める。
 これにあの何万人もの観衆が応えてくれれば皇帝の親指が上がる。
 そうすれば助かるのだ。
 自分のただ1つの命は皇帝の指次第なのだ。

 どくんどくんと激しく脈が波打つ。
 まるでコロッセウム中に轟いているようだ。

 観衆よ、皇帝よ、助けてくれ…。
 やがて観衆が1つの言葉を一斉に叫び出す。
 まるで大きな津波のように声が音となって体中に流れ込んできた。
 背筋に電流のような衝撃が走る。

 男はその声に呑まれながら短く息をついた。


 コロッセウム開設にあたっては1日に人、20人、獣、90匹もの数が死んだという。
 人対人、もしくは人対獣でどちらかが死ぬまで戦うのが一般だが、ごくまれに勇敢に戦った剣闘士の場合は助命された。
 しかし、ほとんどの剣闘士は若くして不幸な最期をとげた。


              死をも恐れない勇気を示すすばらしい行為  キケロ

              人間同士が娯楽のために行う殺し合い  セネカ



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