律令国家の成立
 南北朝に分かれて、ひっちゃかめっちゃかだった中国。
中国の影響が弱まった朝鮮での、中国に対抗した国づくり。そして、国と国との争い。
日本の鉄狙いの介入。それに伴った渡来人。
今まで見てきたように、国同士っていうのは密接なつながりがあるわ。
他の国の影響で、日本の歴史が変わったりもするもの。

 他の国の影響って、すっごい大きいんだなぁ。

 そうよ〜。日本だけ見てたって、日本の行く末は分からないわ。
日本だけじゃなく、世界にも目を向けてこそ、日本という国が見えてくるのよ。
世界と照らし合わせながら、日本を知りましょうね。


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東アジア

 日本が古墳時代の間、中国は南北朝時代でひっちゃかめっちゃかだったって話はしたよね?
この南北朝の争乱もようやく589年に終わったの。
日本がまだ古墳時代の時に、中国では隋が他の国を滅ぼして中国を統一したのよ。
隋を建てたのは北周の生まれの煬堅。都は長安。
ちなみに、1代目の親である煬堅を殺して皇帝になったのが、2代目の煬帝よ。
帝を「だい」と呼ぶのは、彼をおとしめる意味なの。
実は、この隋の時代の次に唐になるんだけど、その時に「隋の煬帝はひどいやつだったんだから、隋は滅ぼされて当然なんだよ〜」って煬帝をおとしめて自分たちを正当化する必要があったってわけよ。

 じゃぁ、そーゆー、煬帝とか呼び名って後の人がつけてんのか?

  そ〜ゆ〜ことね。
で、また隋に戻るけれど。親を殺した煬帝は、大運河を建設したの。
黄河と長江を結びつけちゃおうって計画ね。
これで何ができるかって言うと、物を運ぶことができるのよ。つまり、輸送のため。
この時代は車も電車もないしね。夜もひたすら進む水の流れのが速いわけ。
ちなみに、どうして物資をゲットしようかと思ったかというと、高句麗へ遠征するためよ。
遠征にはたくさんの物資が必要だったの。

 親を殺した人が、なんでトップに立てるのかなぁ。裁かれちゃえばいいのに。

 やっぱり、権力を持ってて強ければ、ね・・・。
この煬帝、実はあの有名な日本の聖徳太子と関係があったのよ。
聖徳太子は隋に使いのものを送ったの。遣隋使と呼ばれているわ。
そして、こんなことを書いて遣隋使に渡してもらったの。
「日出(い)づるところの天子、書を日没するところの天子に致(いた)す」と。
煬帝は激怒!中国ではその時、自分の国がナンバー1で、ほかの民族は下だと思っていたの。
でも、この文面だと対等な関係みたいでしょ。

 俺としては、平等なのが当たり前だけどな。日本へりくだるなってんだ。
 でもなぁ。縄文時代が8000年も続いて遅れてた日本が中国と対等ってのは、やっぱ今までは難しかったんかなー。んで、どうなったんだよ? 煬帝は親を殺したくらいだし、日本に攻めてきたんか?

 いいえ。ラッキーなことに、煬帝は高句麗へ遠征する準備をしていたからね。
高句麗が日本と組んだら嫌だなーって思ったのよ。そして、腹が立ったけれど、日本と友好的な関係でいることにしたの。

 そっかぁ。日本はラッキーだったね!

 ええ。もしかしたら、攻めてこないと踏んで、聖徳太子はあんな言葉を書いたのかもしれないわね。それに、隋は南北朝を統一して力を伸ばしていたからね。日本も隋と対等であるような強い国でありたいと願ったのかもしれないわ。
中国の隋はどうなったかというと、当然ながら運河建設にたくさんの人間がかりだされたわ。高句麗遠征は3回やったけれども、全部失敗。
民衆の負担も大きくて、農民や有力者が反乱。
そして、618年に、唐が成立するのよ。
唐は10年かけて、628年に中国を統一したわ。
そして、2年後の630年には日本から遣唐使が送られてきたの。

 隋の時は遣隋使。唐の時は遣唐使。芸がねぇ名前だなぁ。

 分かりやすいでしょ。この遣隋使や遣唐使で、日本はますます中国の進んだシステムを知ることができたわ。
例えば、隋では家柄に関わらず試験によって官僚を決めていたの。
家柄だけで決めてると、どんどんその家が強くなってく。試験だったら権力は国家に集まる。そして、中央集権的な国家体制ができあがったのよ。

 テストかぁ。家柄で決まっちゃうよりは、テストのほうがまだいいかなぁ。テスト嫌いだけど。

 テストっていう自分の力を出せる場があるっていうのはいいことよ。
この隋と特に唐で律令制度を確立したのよ。
『律』は刑罰を定めたの。『令』は制度とか政治とか行政の決まりね。
律令制の本質は『公地公民』よ。全ての土地は国家が保有し、農民も国家に所有されるという考えのこと。つまり国は土地を貸してやるから、農民は耕して税を納めろってことね。

 隋の時代から口分田や租庸調制もあったのよ。土地貸してやるんだから、お金と、そこからとれる作物を渡せ。布も作ってるようだからそれも渡せ。それだけじゃ足りないから工事の時は働きに来い。ってことね。唐の時代にはこの制度は完全に確立されたわ。

 ・・・しぼりとりすぎ。俺なら逃げたいね。

 まぁ、夜逃げした人もいたでしょうね〜。じゃぁ、ここまでで、いったんまとめるわ。


<大陸の動き>
 @隋の成立(589年)
   都−長安 
   2代目皇帝の煬帝が大運河建設 → 民衆に負担
   高句麗への遠征失敗。     → 同じく   →反乱
 A唐の成立(618年)
   都−長安
   律令制度確立(律:刑罰を定める 令:国の制度や政治の決まりを定める)


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飛鳥時代

 次はまた日本に戻るわ。
中国が589年に隋をたててからすぐ、593年、さっき言ってた聖徳太子が推古天皇の摂政になるのよ。この時から飛鳥時代が始まったわ。

 摂政って何?

 天皇が幼かったり、女性だったりすると、天皇にかわって政治をするのが摂政よ。。
推古天皇は女の人だったから、おいの聖徳太子が摂政についたの。
聖徳太子は天皇中心の国家、中央集権的な国家を目指したわ。
煬帝への文書からも分かるように、聖徳太子は日本を隋に匹敵するような強い国にしようと思ったのよ。
仏教などなどの中国や朝鮮の進んだ文化に接して、このままじゃ日本だめだ!改革しなきゃ!って思ったのね。だから、巨大の国である隋をまねたの。
その時は蘇我氏とかの豪族が力をもって、政治を左右していた。それを解体しようと思ったのね。

 中央集権かぁ。でもよ、天皇だけが強いってのも俺の感覚からすると、嫌だな。天皇の言いなりみたいじゃねーか。

 確かにそうね〜。でも、力の強い豪族のせいで、日本を強くしたくてもなかなか意見が通らないとやっぱ嫌でしょ?だから、豪族の力をそぎたかったのね。で、何をしたかというと。
まずは「冠位十二階」。能力や功労に応じて役人に冠位を授けたのよ。つまり氏や姓っていう家柄によらない人材の当用ね。
氏は「先祖が一緒」って思ってる人の集まりで、姓は称号よ。氏に姓を与える氏姓制度っていう制度は大和国家にできてたわ。聖徳太子は、役人の序列を今までの氏姓はやめて、冠位で区別するようにしたのよ。
聖徳太子は、「冠位十二階」の他に、「十七条の憲法」で、天皇が君主であることを明らかにして、役人の守るべき心がまえを示したのよ。「和を以って貴しとなし」って言葉が有名ね。「詔(天皇の命令)を承りては必ず謹め」と天皇が君主であることを明らかにしているし「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と仏教を国家の精神的なよりどころにしようとしているの。

 聖徳太子は、能力によって人を選んだり、法律を作ったり、中央集権を目指したり、仏教を信じたり・・・。なんか、中国のマネっこみたい。

 そうよ。巨大な国となった漢の真似をして、漢に負けない国になろうとしたのね。
だから、進んだ文化を取り入れようと、遣隋使を派遣した。小野妹子や留学僧をね。聖徳太子はまた、仏教をとても重視したの。蘇我氏が重視してたから、その流れを継いだのね。
聖徳太子は当時力を持っていた豪族である蘇我氏の血を引いていたからよ。

豪族の力をそごうとした聖徳太子も、実は豪族の血を引いてたわけか。

 そ〜ゆうことよ。
聖徳太子によって日本の仏教の基盤ができたとも言われているわ。
この、仏教文化が飛鳥文化なの。
法隆寺や、その中の五重塔や釈迦三尊像や百済観音像が主なものだよ。
もちろん、奈良にあるわ。
釈迦三尊像は、像が三体あって、鼻がでかいの。百済観音像は超スリムで腰から下がセクシーにちょっとそってるやつね。これらは渡来人や渡来人の子孫が主に作ったのよ。

 渡来人ってたくさんの技術をもってきてくれたんだね〜。

 そ〜よぉ。朝鮮からは高句麗や百済や新羅で争いがあったでしょ。中国も日本が古墳時代のころ、南北朝時代で争っていた。戦乱から逃れて日本にくる渡来人が多かったから、よけいに大陸の文化や政策や技術がたくさん伝わったのね。
法隆寺は、現在残っている木造建築では世界最古ね。法隆寺のように、塔(五重塔)が真中に目立つようにあったりする配置は伽藍配置っていうわ。時代が進むにつれて、塔は隅のほうにおいやられていくわよ。

 ほうほう。法隆寺の中に五重塔があったのか。知らんかったなぁ。

 この頃の外国の話をちょっとすると、607年に小野妹子が隋に行った3年後の610年には、アラビア半島のメッカで、マホメットがイスラム教を開いているわ。
 まぁ、今までやった感じで聖徳太子が頑張って天皇中心の国家にしようと思ったのに、人間っていうのはやっぱり死ぬもの。聖徳太子が死んでからは、前から力を持っていた蘇我氏がまた台頭したの。そしてね、あんまり蘇我氏が力をもって好き勝手やるから、殺しちゃえってことになったのよ。

 なんか・・・この時代って簡単に人を殺すなぁ。

 大きな事件をピンポイントでやってるからっていうのもあるけどね。
 で、その蘇我氏を殺しちゃったことと、その後の改革を大化の改新って言うの。中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が滅ぼしたのよ。この時、中国では隋から唐に変わっていてね。余計に、蘇我氏を倒して、自分たちが政治を動かして強い日本にしたいと思ったんだろうね。
この大化の改新は645年よ。「虫殺し 大化の改新」って覚えよっか。
大化ってゆーのは「昭和」や「平成」みたいな、この時の年号ね。年号は山ほどあるのであまり覚えなくていいわ。

 強かった蘇我氏も死んで、これでようやく強い日本ってか?

 そうはうまくいかないのよね。
この時期になると、朝鮮半島では新羅が唐と結んだの。日本が百済と同盟を結んでいたことは覚えていたかしら?新羅が唐と結んで百済をやっつけようとするから、中大兄皇子は助けようと思って軍隊を送ったの。でも、負けちゃうのよね。
このままだと新羅と唐に日本もやっつけられちゃう!こわい!
ってことで、唐や新羅が攻めてきた時のために北九州に「防人」を置いたのよ。
そして、中大兄皇子は天皇の座について「天智天皇」となったわ。
 ちょっとまた外国の話をすると、中大兄皇子が天智天皇となって頑張ってる間、イスラム教は遠いところで広まっていて、イスラム帝国が成立していたわ。

 そっかぁ。でも、せっかく中国が南北朝時代になって弱くなってた隙に、朝鮮半島では国ができたのに・・・。強くなってきた唐と結んじゃったら、また唐に支配されちゃうんじゃないの?

 大丈夫よ。新羅も力をちゃんとつけて、その後、新羅は唐の勢力も退けたのよ。そして、676年に朝鮮半島を統一したわ。新羅も日本と同じように中国をマネっこして、律令制度を整えて、儒教や仏教も栄えたわ。
天智天皇はというと、初めて戸籍を作ったりと、日本を強くするために改革をしたわ。それを不満に思う人も多かったけどね。

 まぁでも、朝鮮半島の新羅もさ、日本もさ、中国を参考にして栄えていくんだろ?
よかった、よかっただな。

 で、それからどうなったかって言うとね。
天智天皇は、自分の子供の大友王子に後をついでほしかったの。
だから自分の弟である大海人王子が天皇になりたい!なんて言おうものなら、殺したい!って思ってたんだと思うわ。大海人王子は殺されないように天皇になる気はないって言ってたんだけど・・・天智天皇が死ぬと、天皇の座を巡って、大海人王子は大友王子と争ったのよ。
これが、672年の壬申の乱。
そして、ついに大海人王子が勝った! 天武天皇として即位したのね。天武のむは武力の武。武力によってもぎとった天皇の座だから、武という名前なのかもしれないわ。

 なんか・・・。やだなぁ。大海人王子からすると、お兄さんの子供を殺すわけでしょ?
大友皇子からすれば、お父さんの弟に殺される・・・。
そんなのってやだ〜。

 そうね〜。皇位は身内で継いでいくものだからね。どうしても身内争いになるわ。
大海人王子は天武天皇となり、聖徳太子や兄である天智天皇が目指した天皇中心の国家を作るべく、律令政治をすすめていったのよ。法による政治ね。法律を守れ。天皇の命令を守れってね。壬申の乱で蘇我氏を滅ぼしたから、よけいに天皇の力は強まったのよ。


 てゆぅかさ。いつのまに天皇って言葉出てきたんだ?

 この天智天皇や天武天皇のあたりから、天皇の呼ばれるようになったみたいよ。
これまでは何だったか覚えてる?これまでは大王(おおきみ)だったわね。
それから、日本はこれまで「倭」だったけれど、このころから「日本」と名乗るようになったのよ。
唐をマネして、奈良に「藤原京」もつくったわ。
天武天皇は701年には、大宝律令を制定したの。唐の律令がお手本ね
大宝律令には、国家のしくみの全てがつまってると言っても過言ではないわ。
大宝は年号ね。

 天皇や日本という名前は今でもあるもんね。日本がつくられてきたーって感じがするなぁ。
で?大宝律令の内容は?

 内容はというと、まず官制が整えられたわ。二官八省っていう仕組みよ。トップに天皇。次に神祇官と太政官。この2つが2官ね。神祇官は神をまつったり神社をまとめたり。実際の政治の権力は太政官が握ってるから、太政官はきっちり覚えましょう。太政官は政治の方針を決めるのよ。その方針にそって他の役所が動くの。だから太政官のもとに、八省があるわ。お金を作ったり度量衡や物価を管理したりするのが大蔵省。軍事や警備は兵部省って具合にね。

 大蔵省? なんか聞いたことがあるな。

 ええ。ちょっと前まで大蔵省があったわね。今は財務省に変わったけれど。
ちなみに太政官の中にも左大臣や右大臣や大納言や色々いたんだけどね。太政大臣は臨時におかれたわ。太政官には、もちろん貴族しか入れないのよ。
今まで説明してきた二官八省は朝廷、つまり都の仕組み。地方は別よ。
地方は国・郡・里に分けたの。都から国を管理するよう、国司(こくし)が派遣されたわ。全国を60個にわけた国は大きすぎるでしょ。だからさらに国を郡に分けて、さらに郡を里に分けたのよ。地方の豪族を郡司(ぐんじ)として農民をおさめさせたの。郡司は裁判や税の取り立てなどをしたわ。里の中で1番有力な農民は里長(りちょう)として、実際に他の農民から税を集めたりする役目を担ったわ。
この二官八省の都や、国・郡・里の地方とは別に、九州には大宰府も置かれたのよ。九州は朝鮮半島とめちゃめちゃ近いでしょ。だから、唐や新羅と交渉する窓口の役目を果たしたの。

 どんどん支配する仕組みができてったのね・・・。縄文時代の影も形もないなぁ。

 そうね〜。大きなことをするためには、大きな権力がいるってことね。
中大兄皇子つまり天智天皇に協力して大化の改新をおこした中臣鎌足は藤原鎌足という名前になって、その子孫である藤原氏は代々さっき言ったような高い位をもらって、給料もたくさんもらったのよ。こういう人たちのことを貴族と言うわ。

 貴族と豪族ってどう違うんだ?

 貴族は家柄とか功績によって、王様とか天皇とかえらい人から特権を与えられた人のことよ。豪族の一部や、天皇の一族が貴族なれたというわけ。豪族は、どっかの地方でとにかく勢力を持ってる人のこと。広い土地を守ったり。その人の言うことをその地方で皆がよく聞いていたのだとしたら、朝廷がその豪族をやとって税金の取り立てとかやってもらったほうがいいでしょ?だから郡司にしたりしたのね。
そーゆう政治の仕組みの他に、班田収授法っていうのも定めたわ。6歳以上の男女に口分田、つまり田を分け与えて、本人が死んだら国に返すの。公地公民ってやつね。
農民には租・庸・調という税の他に、兵役や労役などたくさんの負担があったのよ。

 あれ? それ、中国でやったよ。
民や土地は国のものって。国は土地を貸してあげるかわりに、お金とか作物とか渡せーって。

 そうよ。唐で確率された律令制をまねているのよ。租は稲。庸は労役をするか、その土地の特産物(綿や鉄など)を渡すかすること。調は布。兵役はもちろん兵士として働くこと。ちなみに、土木工事に従うのは労役ね。どんどん農民からしぼりとるわよ〜。身分制度もできて、高い身分なんて望めなくなっちゃうし。
身分制度としてはね、良民と賤民(せんみん)に分けられたわ。賤民の中でも奴婢(ぬひ)って身分だと奴隷として扱われて、自由に売買もされて家族生活は許されなかったのよ。
さっき言った租庸調全てやらなきゃいけないのは良民の成人男子。貴族は租だけでいいの。賤民も租だけね。他のものなんて持ってないもの。
じゃぁ、ここまでまとめるわね。


<聖徳太子の政治と飛鳥文化>
@聖徳太子−推古天皇の摂政となり(593年)政権を握る・・・天皇中心の国家を目指す
 ・冠位十二階(603年)・・・能力や功労に応じて役人に冠位を授けた。
 ・十七条の憲法(604年)・・・天皇が君主であることを明らかにし、役人の守るべき心が   まえを示した。儒教や仏教の考え方を取り入れている
  ・遣隋使の派遣(607年)・・・隋に小野妹子(役人)や留学生・留学僧を派遣した。
A飛鳥文化(6世紀後半〜7世紀中ごろ)・・・日本初の仏教文化・渡来人活躍
 ・仏教文化・・・法隆寺やその中の釈迦三尊像・百済観音像など。

<大化の改新と律令政治>
@大化の改新
 ・中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我氏を滅ぼす。
 ・公地・公民制:全国の土地・人民を国家が直接する
A天武天皇
  天智天皇の死後、672年の壬申の乱にて勝利。
  701年大宝律令を制定
   →天皇を頂点とする中央集権のしくみが整い、律令政治が200年余り続く
   ※律:刑罰について定める 令:国の制度や政治の決まりなどを定める
B律令国家のしくみ
 ・中央に二官八省 ・地方に国司
 ・班田収授法    ・租・庸・調
 

610年 マホメットがイスラム教を開く661年 イスラム帝国の成立
 

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